物事を楽しむためには訓練が必要だ。
この考え方をどう得たのかは忘れてしまったが本かネットかの受け売りだったと思う。
ただ、この考え方についてふと思い出したので考えたことを書いておく。
物事を楽しむためには訓練が必要だということは、学生時代や子供時代に既に多くの人が実感しているはずだ。
例えば、最初は乗れなかった自転車も練習することで乗れるようになり自由に早く移動できること、道具を操作する喜び、自転車に乗る楽しみを感じた経験があるはずだ。
あるいは、学校の勉強で最初は分からなかったことが繰り返し問題を解いたり、知識をつけることで解ける、理解することができるようになり楽しくなるという経験かもしれない。
上記にあてはまらなくても、何かを学んだり、練習したり、継続的に取り組んだ経験があるかもしれない、それを「訓練」と呼ぶことができる。
訓練は多くの場合楽しくない。
できない自分と向き合うことになるし、できるようになり、楽しむことができるようになるまでには時間がかかるからだ。
私の経験を挙げるとすると、面白そうだということでIT業界に飛び込んだものの黒い画面(Linuxのターミナル、あるいはコマンドプロンプト)の操作などしたこともない、もちろんコマンドなんて使ったこともないなかでIT業界での社会人生活が始まった。
(インフラ寄りの仕事だったのでWeb系の仕事でプログラミングして華やかにGUIを作って楽しい!というスタートではなかった。)
最初はどのコマンドを打鍵したらどうなるか、自分が何をしようとしているのかもよく分かっていなかったので、コマンドの打鍵に対してかなり心配して打鍵していたのを覚えている。
(注意深く作業していたという良い意味ではない。ただただ心配だったのだ!)
ただそこから自分なりに勉強したり仕事に取り組んでいく中で理解や自分が取り組んでいることの解像度が上がり楽しいと思えるようになっていった。
そう思えるようになるまでは、何も分からないので仕事も進まないため残業も多くなるし理解や技術力が追い付いていないのでただただ大変だった。
ただその経験があるからこそ、物事を「楽しむ」ためには訓練が必要だという考えを自分のものとすることができたと考えている。
反論としては人間の三大欲求と呼ばれる、食事、睡眠、性欲を満たす行為は訓練しなくても楽しめるではないかということが思いつく。
ただ訓練なしにこれらを満たすという行為は生物的な欲求に従っているだけであって、楽しみではなく快を得ているだけなのではないかと思う。
もちろん三大欲求が楽しいものではないということではない。
食事を摂る時にその素材や産地に思いを馳せたり、口の中で味や食感を分析・感じたりするようなこと、そして美味しさが多岐にわたることを実感するには訓練が必要であり、その訓練から得られる喜びや驚きは楽しさと言っていいと思う。
つまりは楽しむことというのは快不快とは別のことであって、もう少し知的・精神的な態度だということが言いたいのだ。
そしてこの文章の終わりとして、何かを楽しめるようになるためには訓練が必要なのだから、興味や関心があるのであればその瞬間は楽しくなくてもまずは期間を定めて一定期間は取り組んでみるのが良いよと伝えたい。